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美しい書体が絶滅危惧種となった理由
二大勢力のモリサワと写研
昔、デザインの業界では、写植(写真植字)という印画紙に、文字を焼き付ける仕事があった。
その中で二大勢力を持っていたのは、モリサワと、写研。
今では、新人のデザイナーさんは、写研と言っても知らないかもしれないが、実は、デジタル以前。つまり、MacintoshがDTP(デスクトップパブリッシング)という言葉を馴染ませ、それを当然のこととして、意識させなくなる時代が到来するまでは、業界トップを誇っていた。
書体も、モリサワよりも、美しく、クオリティの高いもので、書体指示をする時には、私は、ほとんど、写研の見本帳しか使用していなかった。
書体名で言えば、ゴナDBなど、通常づかいの書体に加えて、スーボ、ナール、などのタイトルに使いやすい変わった形であるけれど視認性が高い書体が多く、完成度が素晴らしい書体だった。
写研の説明によれば、美しい組版のためには文字(書体)と組版ソフトウェアを切り離すことはできないものであり、そのため同社はそれらを単体ではなくセットで提供するという考えのもと、進んで来た。
今でも、写研、見本帳と検索して出てくる画像にはため息が出るほどである。
それほど美しく、こだわった書体を生み出す会社が、なぜ、知られないようになっていくのだろう。
作品”左ききのエレン”による時代の掴み方
最近、非常に面白く読んでいる、左ききのエレンという、WEB漫画での一言が、それを如実に表していると思った。
「俺たちは、俺たちのプライドに殺される」という言葉に代表される言葉だ。
作中、アートディレクターの神谷は言う。
インターネットは、いつか広告の主戦場になる。オレ達はこのままいけば化石だぜ?
良いものが根っこから変わるー
これは革命だ革命ってことは、何かが滅ぶって事だ
オレ達は急に新しいルールを受け入れられない。
何でかわかるか?
オレ達には誇りがあるからだ。
俺たちが磨き先人達が開拓してきたこのデザインという領域に誇りがある。
新しい時代のクリエイターにじゃねぇ…。
オレ達はオレ達のプライドに殺されるー。
デジタルとアナログの間の出来事
Macintoshの導入とシェアを奪われていく写研
当時、Macintoshとプリンターの導入が、個人のデザイン事務所にも波及し、写植の会社は、バタバタと無くなっていった。写植の会社がなくなるということは、書体と組版ソフトウェアを切り離すことができないと語っていた写研にとっては、生き残る術が絶たれていくということだったかもしれない。
写研がユーザーと切り離されていく姿を私たちデザイナーは、無感動にただ眺めていた。
そうした今、よく見る文字のほとんどはモリサワ製のフォント。モリサワがここまで大きくなったのは、モリサワフォントをPhotoshopやillustratorでおなじみのアドビ社に提供したからだ。
しかし、当時のAdobeが(今から約20年前)日本語のフォントとして起用したかったのは写研のフォントだった。
素晴らしくアーティスティックなデザインと文字組とを社内に抱え込み、公開する事を拒んだ写研は、段々と、シェアの縮小を余儀なくされていく。
ユーザーも、Adobeも写研フォントがDTPへの参入をしていないため、「写研フォントが使いたくても使えない」状況が続く。
代わりとしてモリサワフォントが使われることになった。
グーテンベルク以来の改革だ!と話題になっていたコンピュータによるデザイン・印刷技術は、だんだんと充実していくフォントはモリサワのフォントで染まっていく。
代用品でも、世の中は気づかない…?
クオリティでは巻き戻せなかった時間
写研のフォント「ゴナ」とモリサワの「新ゴ」というフォントがよく似ていたため、ゴナが使えない。
その代わりに類似の新ゴを使い、今までのチラシの移行を行なっていったのは、当時印象深い出来事だった。
クオリティは、やはり、新ゴよりも、ゴナの方が高い。
しかし、このくらいなら、ユーザーにはわからないだろう…。とドキドキしながら、サイズを合わせ、スペックのフォーマットを作成した記憶が未だに残っている。
フォントのクオリティが下がりましたね。と、言われたらどうしようかと思ったが、そのようなクレームや指摘は、ほとんど無く、世の中はそんなに微細な違いに敏感ではない。と改めて知ることとなった。
写植の会社の社長と話していた時に私が語った言葉
「文字のクオリティは、写研です。離れていたユーザーもクオリティを求めて戻って来ますよ。大丈夫ですよ。」
その言葉は、脆くも崩れたし、それを言った私自身が、率先してMacintoshで文字を打ち、レイアウトを組むようになる。
私は、嘘をついた。
崩れていく業種に関わる人に対する、つまらない、気休めの嘘だ。
無感動に見殺しにしてきた写植の会社だ。
私は、厳しい言葉を一つかけることもできないばかりか、判断を遅らせるような気休めの言葉を吐いた。
「綾写植さん、潰れたって…。」
その言葉を聞いた瞬間の、あの時の鬱々とした気持ちを未だに覚えている。
手軽で、迅速にプリンターで出力できるという理由だけで、フォントデザインのクオリティは負けるのだ。商業印刷は、アートではない。それを求められていないことは、崩壊する業種を見て痛いほどわかった。
商業印刷は、利益を求めるものであり、感動を求めるものではなかった。
クオリティを守るための拒絶と、新しい時代を築くためのチャレンジと。
仮に、商業印刷が、アートだったとしても、アート自体は、絶対的なバックボーンがない限り、吹けば飛ぶようなものだ。
絶対的なバックボーンは、集中した権力が存在する時代にしか成立しない。
そして、写研は、そんな時代に書体をオープンにせずに独自路線を歩んでしまった。
果たして、写研は、何を信じていたのだろうか?
しかし、その反面、モリサワはアドビと提携し、Macintosh用フォントとして自社の書体を販売する道を選ぶ。フォントの種類も少ないDTPの世界に、数多くの文字による彩(いろどり)を創出した。
フォントのスタンダードの地位を巡っては様々な戦いがあったが、1990年代を通じてモリサワの書体は、DTPにおけるデファクトスタンダードとして盤石の基盤を築く。
デジタルの戦いに背を向けた写研と、真っ向から向かい合ったモリサワ。
時代が移り変わる時に、いつもこの事を思い浮かべる。
そして、最近読んだ、「オレ達はオレ達のプライドに殺されるー。」この言葉を、更に思い浮かべるのである。
我々は、我々が握りしめたプライドで殺されていっていないかと。
そして、現在、未だに、写研は、Webページさえ、制作されていない。
それは、それで、不気味に何かを伺っているような気もするが…。
次の文化を担うもの
時代の変遷は、ライフサイクルによる見方で位置づけできる。
書籍の販売数が、近年軒並み低下している。
それはそれで、時代の流れだということは、理解できる。
書籍の販売は、そろそろ、利益アイテムにはならなくなって来ているのではないかと、最近思うのだ。
収益を、得られないモノが、移行する次のステージは、文化を担うという役割だ。
そこには、クオリティという絶対的な譲れないものが必要となってくる。
その業態は、継承され続け、磨かれたクオリティの時代に移行する。
次の写研の時代が来るとすれば、そのクオリティの時代にこそ、活きるものではないかと、今、おぼろげに思うのである。