ひと月で…。
練習量200kmで楽々ゴール。
練習量100kmなら、死にかけゴール。
ネオ倶楽部グループ役員のトライアスリート小石原の言葉である。
その言葉を受けての、今年、2回目のフルマラソン。
今回は、プリッヅで作成したオリジナルTシャツを着て参加する。
背中に宣伝入り。まるでスポンサーがついたようだ。
そんなプレミア感満載の大会参加。
しかし、練習は、100kmにも満たない。
ぞわぞわする。
前回の鹿児島の時は、ある程度の練習量は確保できていたのに、途中で歩いてしまった。それでも、なんとか完走できた。
そもそも、デザイナーの私自身、体力とかそんなもの全くない今年50歳になるじじいである。
文系で、それこそ、スポーツとは無縁の生活を平和に送って来た昨今なのに、突然のフルマラソン。
もう、トチ狂ったとしか思えないと周囲の反応。
いや、前兆はいろいろあった。
いろいろと人生に迷っていた時に、博多祇園山笠に参加したのが44歳の頃。
そこで知り合った、株式会社ネオ倶楽部の部長トライアスリート小石原にお願いするような形で入社した。
それが、株式会社ネオ倶楽部入社のきっかけ。
紆余曲折あって、プリッヅ事業部へと配置された。
その、株式会社ネオ倶楽部 部長の小石原は、揶揄しているわけでもなく、ガチで体育会系、ロングのトライアスロンを走破する強者。
フルマラソンなどは、嗜む程度といっても過言ではない。
フルマラソン走った後に、徹夜で研修をしてしまうほどの体力の持ち主であり、外見は、部長の前田氏曰く、「かりんとうくらいの色の黒さ」だと評される。
夜道では会いたくないタイプ。(こんなこと書いて、大丈夫かとても心配である)
私からすれば、10歳年下の今年40歳。
この10歳年下というのも曲者で、40代という年代は、充実しすぎるほどの恐ろしいほどの体力に満ち満ちている。
熊本城マラソンに出ると言うや否や…。
「じゃ、前哨戦で、鹿児島の指宿マラソンへ参加申し込みしておきます!」
「はぁ?!は、はぁ…。」
まぁ、そんなこんなで、今年一番から、1月に鹿児島指宿のフルマラソンを走り、2月に熊本城マラソンへと続く。2ヶ月連続でフルマラソンを走るという、恐ろしい状況に陥ることになる。
高校時代は、文芸部。
大学時代は、経営学研究会。
そんな私が、月に2回もフルマラソンだってよ!
自分で自分に驚愕する。
そもそも、なぜ、熊本城マラソンへ応募したのかというのには、ある程度理由がある…。
大学は熊本学園大、卒業して、デザイナーを10年ほど。
つまり、もともと、私、デザイナー森のキャリアの始まりは熊本で、そこが起点だった。
就職にも苦労して2年ほどの間に二桁ほど転職し、ようやくデザイナーへたどり着いた。そして、デザイナー時代も激しいハードワークで目を血走らせながら、仕事をした。
そして、苦労したぶんだけ、励ましてくれる人にもたくさん出会った。
それから、熊本から福岡へ移り住み、何年経っただろう。
2016年4月14日の震災。
福岡にいる私は、何もできなかった。
あの時の無力感。
何がデザイナーだ。
寝食を忘れて励んで来たデザイナーという肩書きの末路が、小さなコンビニの募金箱に小銭を入れるくらいのことしかできない。それが、自分の仕事の全てかと、絶望的な気持ちになった。
福島や、岩手など、離れている土地のことではない。
すぐそこの、隣の県の話だ。
目と鼻の先で起こっていることについて、何の行動も、そういった困った人がいる時に、何一つ「役に立つ」キャリアを積んでこなかった自分から目をそらし、今まで。
あれから、熊本へ行っていない。
震災が起こって、目をそらすように生きて来た中で、ふと、見つけた熊本城マラソンの文字。
まだ、走ったことのない42.195kmを不安に思いながらも、何か理由をつけなければ熊本へいくこともないだろうと思った。
応募に漏れるかもしれないし、その時は、今までと同じモヤモヤとした日常が続くだけだと思い、申し込んだ。
結果当選。初心者枠。
熊本城マラソンへ参加することになった。
そんな経緯。
前日は、大牟田の実家に宿泊した。
親は、「マラソン走ると?20キロ?わー。きつかねー。」
本当は42.195だよ。と思いながらも、そうそう。と言っておいた。
姉は、「きつーなったら、すぐやめなんたい。(体が不調になったらやめなければだめだ)」と言う。
うるせーなと思う。走る前から決意を挫くなよと。
まぁ、50歳になるおっさんが走るという。
そしてその家族は、今まで文芸部とか、デザインばかりやってるデスクワーク中心の過去しか知らない家族である。
私が走ることに関して、がんばってーと声援する人は身内では皆無なのだと思い知る。
実は、妻でさえ、「なんでお金出して走るの?」と不満げである。
応援する気は?と言うと、まぁ、将棋の試合とかだったら応援するけどねぇ…。
だって、まぁしょうがない。
自分でも、自分のキャラではないことは重々承知していたのだから。
多分、ずっと、こんな感じだろう。
前日の手続きのために一路、熊本へ。
上熊本駅が綺麗になっていたり交通センタービルがなくなっていたり。
それよりも、熊本に来た懐かしさが先に立つ。
昔、少しだけイベント会社に勤務していた時に、立ち寄った喫茶店に入る。
その当時、一緒に席に座っていた桜井さんという社長は、逮捕され、そのイベント会社自体が無くなってしまった。
未だに禁煙でない中川珈琲店。小ぎれいなおばさんが、隣でタバコを吹かしている。
何かしら、当時の、昔のつながりを探そうとするけれど、思いの外、もう、繋がりなどなかった。
知人との、約束もない。電話しても、突然のこと。出てこれる人もいないだろうとあきらめる。
そのまま、熊本城へ足を運ぶ。
もはや、熊本と何も繋がりのないことを再確認した後、天守閣と、宇土櫓を眺める。
青空。晴天。日差しが暖かい。
天守閣の瓦は落ち、石垣は崩れ落ちていた。
宇土櫓は、石垣こそ崩れていたものの、しっかりとその姿を残していて、胸を突くものがあった。
もう、今更誰にも声をかけられないほど、過ぎてしまった時間を思いながらも、熊本城はずっとそこにあって、崩れかけた姿を晒しながらも、青空の下、凛々しかった。
宇土櫓、ほとんど無事だったんですね。
警備のおじさんに、話しかけた。
そうですね。せいしょこ(清正公)さんがつくられたけん、頑丈です。しっかりと耐えてくれました。
ニコニコとした、優しい声。
実は、天守閣などは西南戦争などで消失し、建て直しされているが、宇土櫓だけは火災から残り、未だに昔ながらの姿を留めている。
宇土櫓、無事でよかったですね。と言うと、「そうです。もう、大切な熊本の財産です。」
警備のおじさんと話しながら、ボロボロと泣けた。
誰も、気軽に声をかけて遊びにいく相手もいなくなった熊本で、声をかけた警備のおじさんの声がとても優しく、迎えてくれた宇土櫓は、昔見たままの姿を見せてくれていて。
熊本でのデザイナー時代を過ごしてフリーランスへ。
人と交ることのないデスクワークの仕事から、営業のことなど、何も学ぶことなくフリーランスになり、慣れない人生の中で、いろんな事があった。
食えなかったり、騙されて、わずかばかりではあるが、借金を肩代わりしたり、もう、デザイナーなんて辞めようかと思った中でも、なんとか、助けてくれる人がいて、未だに、デザイナーにしがみついている。しがみつけている。
デザインのキャリアってなんだ?という問いを、未だに持ちながらも。
熊本で震災があった。
その中でも、熊本城がそこに傷つきながらも立っている姿に、人は自分を投影するのかもしれない。
そして、あれほど美しくはないけれど、自分も、傷つきながら生きて来た人生の中で、凛々しくありたいと願うのである。
熊本城を見て、泣けた。という熊本と関わりのある人は多い。
出走手続きを済ませて、もらったもの。
天守閣の瓦のかけらが、痛々しく胸に刺さる。
明日は、しっかりと走る。
とりあえず、完走する。
そう決意を新たにする。
▲荷物預け入れのトラック
朝は、底冷え。
8時コース入場で、9時スタート。
待つ時間が苦痛な寒さ。
株式会社えがおのビニール製のレインコートや、手袋が役に立つ。
水前寺清子の365歩のマーチ
爆風スランプのランナー
KEYTALKの「Oh!En!Ka!」
スザンヌなどのタレントがオープニングを飾る。
歩かないでください~!後がつかえています~!というアナウンスの中、間寛平をファンランの枠の中で発見したり、スタートは余裕。皆が、スマートフォンでタレントの写真を撮影しながら足を止めている。
出走前。
まだ、お祭り騒ぎ。
前哨戦だった鹿児島指宿菜の花マラソンは、恐ろしく急勾配の連続で、心が折れた。
30キロあたりで、もう、走れんなぁ。と罪悪感を抱えながら歩き始めた時に、沿道の、大丈夫足はまだ前に出てる!という横断幕を見て、泣きそうになり、そこで、ああ、俺、途方に暮れてたんだと自分の感情に気づいたり。それでも、完走できた。
しかし、今回は、本番。
歩かずにゴールすれば、30分は縮められるはず。
前回の鹿児島は5時間50分。
沿道に知り合いはいないかと、目で追ってみるが、全く見つけることはできなかった。あとで考えてみると、スポーツそのものに興味がある人間が、自分にはいなかったなぁと、改めて思うのである。沿道にいるはずもない。(笑)
自分では、凛々しい顔をして走っていたつもりでも、明らかに、死にそうな顔をしてる。写真の表情は意外と嘘をつかない。
じじい、むごい顔して走ってるなと、改めて思った。(笑)
写真撮ってる人を見つけて、笑顔を作って、手を振ってるつもりが、「もう、お手上げ」のポーズに見えるてしまう。
あまりにも、カッコ悪過ぎて、これは記念にとっておかねば!と。
カッコいい写真は、写真館でも撮れるが、悪意のないカメラマンによる苦痛に歪んだ死にかけの顔は、なかなか、撮影してもらうことは無いしなーと。
さて、沿道には、給水のみならず、お父さんお母さん、子ども達や、おばあちゃん、家族、などが、チョコレートや飴を手渡してくれたりする。
チョコレート・アメ、両手いっぱいに抱えながらも受け取ってもらえずに、「なんで、取ってくれんと!!」とキレてる女の子。
ひとり、ぽつんと車椅子で応援に来てるおばあちゃん。
暖かい日差しの中で、うたた寝しながら、家族と応援するおじいちゃん。
会社の同僚の応援。
嬌声を上げて、知り合いを見つけて手を振る集団。
さまざま。
沿道の応援にも、いろいろな背景が見え隠れして面白い。
いつも、練習は不足していて、30キロ超えたあたりから、足が重くなるのは予想通り。
気力では、走りきれないなぁと、つくづく思う。
仕事が忙しくて、明日のことを考えると、どうしても体力を温存しようとして、練習ができない。
でも、それも言い訳だと、つくづく思った。
忙しい時にも、走る努力をしてないと、限界で力は出せないものだと、走っていてよくわかった。
大変な仕事も、フルマラソンも、いずれは、終息を迎える。
多分、ぎりぎりまで、追い込んでいかないと、いざという時に、無理がきかない。
無理っていうのは、きっと、限界を見極められる力を蓄えることかもしれないと思った。
どこで、自分の限界がくるのかなぁと。
体力か、それとも、精神的なものか。
自分のための無理なのか、人のためを思って背負う無理なのか。
できれば、これから、少しでも何かを背負って生きていけるようになれればと、震災が起こった地で思う。
自分に目指すものがあるなら、そこで、少しでも無理をしながら、進んでいくしかないかもしれない。
そして、それは、毎日少しづつの練習で積み上げていくしかないのかもなと、そんなことを考えていた。
最後の上り坂で、足をひきずるようにして走りながら、小石原さんの言い草を脳裏で反芻する。
練習量200kmで楽々ゴール。
練習量100kmなら、死にかけゴール。
もちろん、走ったあとに足が攣り、逆流する胃の内容物を、戻しそうになりながらも、予定通り、なんとか鹿児島指宿なのはなマラソンより、30分縮めて、
5時間18分で死にかけゴール。
高速バスで、ぐったりと、意識をなくしながらの帰途につく。隣にフルマラソン参加したであろう若いお姉さんが座っても、死にかけだったので、窓際に体を小さく折りたたみ、こじんまり爆睡しながら、福岡へ帰る。
何か、今後を変える、力になるチャレンジであることを祈って。
フルマラソンに参加するいろいろな思いを抱えながら走るランナーの方々を株式会社ネオ倶楽部 プリッヅ事業部は応援します!思いを込めたTシャツ、デザイナーが作るロゴマークなどのデザイン代は無料でランナーのみなさんを応援中!