こんにちは、少年の心を持つ、50代。
もりしんじです。
普段はデザイナーをしています。
そんな私ですが、私にも子供の頃がありました。
かれこれ、半世紀も生きていても、子供の頃というのは、人類に平等に与えられているわけです。
生まれてきてすぐジジイではないのです。
今回は半世紀生きている少年が、好きだった服の思い出から思うあれこれを語ります。
今、プリッヅに配属されて、1年も経っていないのですが、カタログを見ていると、どうしても惹かれるシャツがあります。
ラグランTシャツという種類のシャツです。
これ、5歳くらいの時のこと。
つまり、45年も前の話です。
45年も前にもラグランシャツみたいな、袖と、ボディの色が違う『しゃれおつ』なシャツがあったのです。
そして、そのシャツがとてもお気に入りでした。
袖の部分は、確かグリーンで、ボディの部分は、白。
そこに、アップリケのようなクマの顔が配置されていました。
今、50歳のおっさんが着ると、ひゃーーーと、叫び声が聞こえそうですが、その頃は、まだ、5歳です。
そんなファンタジーなシャツも似合っていたのです。
しかし、子供の頃の話。
いつしか、そのシャツとお別れする時が来るわけです。
破れたとか、着れなくなったとかではなく、ふと、気づくとなくなっているわけです。
多分、その喪失感とか、そういったもので記憶しているのでしょう。
大好きだったシャツが、なくなった喪失感で、50歳になった今も、そのシャツを覚えているわけ。
そのシャツを着ていた時の守られてる感とか、ご機嫌な感じとか。
また、その記憶を確定したのが、引越しの時。
もう、既にそんなクマのキャラクターに見向きもしなくなった年代になっていた時。
タンスを動かした、その裏から、そのお気に入りのシャツが出てきたのです。
なんか、ものすごく仲が良かった幼馴染と出会った感覚だったのに、子供っぽいままのその友人を知らん顔してしまうような気分で、向き合った思いをいまだに覚えています。
これ、捨てるよ。と母が言う言葉に、そっけなくうん。と後ろ髪を惹かれる思いで答えました。
多分、もうすこし、そのシャツと一緒にいたかったのかもしれません。
しかし、人は、幼いことを良しとせず、その気分を振り捨てて成長していきます。
別れを惜しむ時間もなく、幼少期を振り捨ててきたんだなと感じる時があります。
情緒とか、子供っぽいことなど、そんなものを気恥ずかしく思いながら、今も生きています。
もしかしたら、そういった思いの中に、本当は大事なものがあったのかもしれないと思いながら。
最近、実家に帰ると、モノがどんどん増えていってるのです。
捨てればいいのに。と、思うものも、捨てられない父がいます。
歳をとるごとに、そうやって振り捨ててきたものを惜しみ、悔やむ気持ちが強くなって来るのかもしれません。
歳をとるごとに、欲がなくなってきます。
歳をとるごとに、女の子と仲良くしたいとか、腹一杯うまいものを食べたいとかいう欲がなくなってきます。
その代わりに、思い出を大事な人と共有したいという思いはとても強く強くなるようです。
おそらく、物を捨てられないのも、思い出が微かに残っているものに対する執着なのでしょう。
父など、新しい服を買うお金もあるはずなのに、破れた作業着などを、「これがいっちゃん着心地がよかったい!」と照れ臭そうに言いながら着ています。
妻の玉季は言います。
昔、じいちゃんがね、突然、若い頃に住んでいた所へ、北海道の札幌から、電車に乗って、遠い遠い青森の親戚の家に出かけて行ったんだって。
もちろん、その親戚も亡くなっていて、じいちゃん覚えている人なんて、周りに全然、いなくって、いきなり知らないじいちゃんが訪ねてきたもんで、怖がられちゃってね。
話をしたかったんだろうね。
昔の話を…。
妻の玉季の祖父は、炭鉱に勤め、足を怪我して、膝に金属のプレートが入っている。そんな体で札幌から青森に、思い出を共有したいがためだけに、たった一人電車に乗って、出かけて行く。多分、思いを語れるだろうことにワクワクして。
その祖父も、亡くなってしまった。
この世からいなくなってしまった。
父や母がいない玉季は、私と結婚する時に、「じいちゃんに会わせたい人がいるから、今度結婚するんだ。家にいてね。」と伝えていたにも関わらず、出かけてしまい、家に帰って来ることはありませんでした。
じいちゃんは、一緒に思い出を語れる玉季が、遠く、九州に行くことが、とても寂しかったのかもしれない。そう思います。
それは、きっと、お別れをすることに。
楽しい思い出を語り合う欲を満たせなくなることに。
思いを奪われる気持ちに、耐えられなかったのかもしれない。
そう思うのです。
最近、昔好きだったシャツを思い出しながら、カタログに掲載されているラグランのシャツを見ながら、そんなことをふと、思う昨今です。
人生なんか、50年生きて、後悔しかない。
そんなことを思ったりします。
今年、2017年の11月で、もりしんじ、半世紀です。
少しでも、思い出を語り合う欲を満たしてくれる人を、たくさん作っておこうと。
そして、じじいになって、ふらふらと、私も、「あんたの、とうちゃんは、どこにいったとね?」と、耳が聞こえなくなって、必要以上に大きな声で馴れ馴れしく語りかけ、「知らない、怒鳴る気持ち悪い、怖い人が来た」って、言われてみようかなと、改めて思うのです。
その時には、じじいでも、クマのアップリケのついたラグランのシャツが似合う、ファンキーなじじいになって、より、怖がられたいと、密かに目論むのです。(笑)